スピン

Prerequisite

前節では角運動量演算子の交換関係から導かれる固有状態 |{l,m}\rangle  の性質について議論した.
その結果角運動量の大きさのラベル l  は整数と半整数しかとり得ないことが示された.
また一次元調和振動子の節では生成消滅演算子の交換関係からエネルギー固有状態が下限を持つ離散的なラベル n  が付けられることをみた.

ここでは詳細には触れないが原子を1つの原子核と1電子の二体系とみなし,原子核が十分重いとしてその運動を無視する.
このとき電子は原子核をソースとするCoulombポテンシャルの中を運動する古典Hamiltonianを正準量子化して記述できる.
正準交換関係よりHamiltonianと角運動量は可換であることがわかり,これらの同時固有状態が構成できる.
さらにSchrödinger方程式の帰結からエネルギー固有値は下限を持つ離散的なラベル n  をもつ.
こうして原子核に束縛された電子の固有状態は |{n,l,m}\rangle  と表せて

を満たす.
ただし

しかしながらいくつかの実験結果からこの |{n,l,m}\rangle  だけでは記述しきれないことがわかっている.
有名なものを2つ挙げると

  • 異常Zeeman効果: 原子が放出する光の波長は固有状態 |{l,m,n}\rangle  から説明される.
    しかし外部磁場下でナトリウム原子のD線とよばれる波長では n,m,l  ではラベルが足りない.
    これは l,m,n  以外の可換な物理量が存在し縮退が解けることを示唆している.
  • Stern–Gerlachの実験: 電気的に中性かつ角運動量 l=0  の銀原子を不均一外部磁場中に射出する.
    このとき銀は2つの離散的に分裂した軌道のどちらかを描く.
    これは2つの状態しかとれない角運動量以外の自由度の存在を示唆している.

実験内容に深入りはせず他書に委ねることにして簡単に結論だけを述べていくことにしよう.
各種実験結果から示唆された自由度は電子がもつスピン (spin) とよばれる物理量である.
エネルギーと角運動量のラベルが同じでもスピンのラベルの違いによって2つの異なる状態が存在することが知られている.
スピン演算子 \hat{S}_i  を角運動量と同じ交換関係

を満たすとして定義する.
大きさの演算子 \hat{S^2}=\hat{S}_x^2+\hat{S}_y^2+\hat{S}_z^2  の固有値は \hbar^2s(s+1)  とあらわせて s  0  以上の整数または半整数である.

電子をはじめとした全ての素粒子は固有 s  のスピンを持っている.
つまり素粒子によって s  の値は決まっている.
スピンの大きさによって素粒子を分類することができ.
s=0  の素粒子はスカラー粒子と呼ばれHiggs粒子がある.
スピン 0  とはスピンを持たないことと同じである.
スピン 1/2  の素粒子は電子の他にミュー粒子,タウ粒子といったレプトン (repton),それから核子を構成するクォーク (quark) などがありこれらはスピノル粒子と呼ばれる.
またスピノル粒子は物質粒子とも呼ばれ,すべての物質を構成している.
スピン 1  の素粒子はベクトル粒子と呼ばれ,たとえば光子やウィークボソン,グルーオンが存在する.
またスピン 1  の素粒子はゲージ粒子とも呼ばれ,3つの相互作用,電磁気力・弱い力・強い力を媒介している.
これより高次のスピンを持った素粒子は現在見つかっていない.

素粒子のスピンを説明するには特殊相対性理論の枠組みで量子力学を議論しなければならない.
すなわちMinkowski空間におけるLorentz変換を状態ベクトル空間において表現する際に自然に導かれるものなのである.
詳細は場の量子論において議論することにする.

素粒子が複数集まってできた複合粒子のスピンもその粒子固有のものである.
たとえばクォーク3つからなる陽子・中性子のスピンは 1/2  ,クォーク2つからなるπ中間子のスピンは 0  である.
これらのスピンは素粒子のスピンから説明することができる.
このようなスピンの合成の問題はより一般に角運動量の合成の問題として取り扱うことにする.

引き続き電子のスピンについて述べていく.
電子の固有状態ベクトルにスピン自由度 \sigma  を加えて |{n,l,m,\sigma}\rangle  とすると

を満たす.
ここで \sigma=\pm1  であり \hat{S}_z  の固有値は \pm\hbar/2  の2つである.

軌道のラベル n,\,l,\,m  はここでは興味がないとして省略してスピン自由度にだけ注目しよう.
無次元化 \hat{S}_i=\hbar\hat{s}_i  をして [\hat{s}_i,\hat{s}_j]=i\epsilon_{ijk}\hat{s}_k  となる.
さらに表記を簡単にするために固有値 +1/2  に属する方を |{\uparrow}\rangle  とし, -1/2  に属する方を |{\downarrow}\rangle  と書くことにしよう.

註) |{+}\rangle,\,|{-}\rangle  と表記することもある.

大きさについては \uparrow,\,\downarrow  によらず \hat{s^2}|{\sigma}\rangle=3/4|{\sigma}\rangle  となる.

固有ベクトルが2つしかないということは対応する系には2つしか異なる固有状態が存在しないことを意味する.
電子のスピンの任意の状態ベクトルは |{\uparrow}\rangle  |{\downarrow}\rangle  の重ね合わせで書けることになる.
すなわち

と展開できる.
\uparrow  を第1, \downarrow  を第2成分とする2次元の数ベクトルと同一視して

と表記する.

二次元のベクトル空間では演算子 \hat{s}_i  2\times2  の行列要素をもつ.
状態ベクトルと同様に演算子を 2\times2  の行列と同一視してしまう.
まず \hat{s}_z  の行列要素は

となり対角化されている.
たしかにこの行列に対する規格直交化された固有ベクトルを,

とすればよいことがわかる.

次に上昇・下降演算子を \hat{s}_{\pm}=\hat{s}_x\pm i\hat{s}_y  で定義すると,

を満たさなければならない.
これらから上昇・下降演算子の成分は完全に定まって,

この2つの行列から \hat{s}_x  \hat{s}_y  の成分も定まって,

結局スピン演算子の各成分は

と表現されることがわかった.
ここで定義した行列 \sigma_i  Pauli行列という.
スピンはオブザーバブルであることから \sigma_i  はHermite行列でなければならないが,上の表現でHermite行列であることはみてとれる.
また重要な性質として,二乗するとどれも単位行列になること,トレースは0であることがわかる,

I_2  2\times2  の単位行列.
大きさ \sigma^2  については,

\hat{s}^2  の固有値が 1/2(1/2+1)=3/4  であるからちょうどその4倍になっている.
また i\neq j  のとき, \sigma_i\sigma_j=-\sigma_j\sigma_i  を満たすことがわかる.
したがって反交換子を

で定義すると反交換関係

を満たすことがわかる.
さらに交換関係と反交換関係の和をとると次の関係もわかる:

この両辺のトレースをとってみると,Pauli行列単体はトレースレスであることから,

となる.
この式はPauli行列どうしの内積が規格直交化されていることを示している.
以上の性質は粒子のFermi統計性や回転のLie代数がなす線型空間と関連している.
詳細は表現論の章で扱う.

Pauli行列はさまざまな条件から導かれたように映るかもしれないが,実際には角運動量演算子の交換関係とそれから直接導かれる性質のみを用いている.
ゆえにPauli行列による表現は交換関係だけから得られたのである.
この表現は座標表示とはちがって離散的な表現である.
座標表示では固有ベクトルを各量子数に対して連続変数 x,y,z  を引数とする函数で表現したが,今の表現では変数(ベクトルの成分)は第1成分か第2成分かの値しかとらない.

元の固有状態 |{n,l,m,\sigma}\rangle  に戻って,これらを座標表示とPauli行列によって表現すれば

となる.
n,l,m  が与えられた任意の状態ベクトルは2つの線型結合で

となる.
このような2成分をもった波動函数をスピノル波動函数という.

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