熱平衡状態

日常で熱と温度という言葉はほとんど区別されずに用いられる.
実際物理学においてもその違いはほとんどなく,どちらもエネルギーの形態を指す.
このような物理量を扱う熱力学はこれまでの力学電磁気学とは本質的に異なっている.
それはマクロ (macroscopic) な物理学であるということである.
マクロとはわれわれが日常的に感知できるくらいの大きさのことを指す.
それゆえ熱力学を原子や分子のような小さな対象に適用することはできない.
熱力学は,運動方程式では到底記述しきれない厖大な数の原子や分子の運動を無視して,マクロな視点からシンプルな理論にまとめあげたものである.
その結果あらわれる量が熱や温度,そしてエントロピーといった数個の量なのである.

熱力学の対象は様々な環境下に置かれた物体である.
最も簡単な設定は孤立系 (isolated system) である.
孤立系の物体は外部とのあらゆる相互作用から隔絶されている.
さらに物体は静止しているとして物体全体としての運動は考慮しない.
考慮する必要があるときには別に考えることにする.
孤立系の物体の全エネルギーを E  とすると今の仮定のもとでは内部エネルギー (internal energy) と呼ばれる量にひとしくなる.
マクロな物体では力学的エネルギーとは別に内部エネルギーが存在し,これは物体を構成する原子や分子のミクロな運動エネルギーの総和である.
ミクロな運動は様々であるので全体としてみればそれらの運動量が打ち消しあって総体としては 0  であるかのように見えるのである.

温度の熱平衡状態

物体の温度を T  としよう.
温度の定義は後で述べるが,日常で使うCersius温度(摂氏)におよそ 273  を加えて常に T>0  としたものである.
孤立系の物体の温度は一定であり物体のどの場所でも同じ温度になる.
はじめ物体は2つに分かれていて一方の温度は T_1  ,もう一方は T_2  T_1>T_2  というふうに温度が異なっていたとしよう.
そして2つの部分を接触させるとエネルギーの移動が起こって両者の温度はある中間の温度に落ち着いていく.
すなわち,

を満たす温度 T  で一定となる.
日常でもこの事実は体験できるだろう.
この操作ではそれぞれの物体には仕事はなされていないから力学的にはエネルギーは不変である.
しかしながら物体の内部運動によってエネルギーが温度の高い方から低い方へ流れていき,最終的に流れがなくなって一定の温度になるのである.
孤立系でははじめ温度がばらばらでも十分時間が経過すると物体の隅々で温度が同じになる.
温度に限らずマクロな変数が一定になった状態のことを熱平衡状態 (thermal equilibrium state) あるいは単に平衡状態といい,そうでない系を非平衡状態という.
どんな非平衡状態も孤立系であれば十分時間が経つと平衡状態になる.

圧力の熱平衡状態

温度以外のマクロ変数には圧力 P  がある.
圧力とは単位面積あたりに働く力のことである.
孤立系を2つの部分にわけてその間は可動の仕切り板があるとしよう.
もし圧力が左右で異なっていて P_1>P_2  であるならばこの仕切り板は力学的に運動し力学的平衡点において静止する.
作用・反作用の法則が成り立っていて,両方から働く力は等しく面積は共通なので圧力も等しい.
すなわち圧力に関しても熱平衡状態が達成される.

他方,仕切り板が平衡位置にとどまることで2つの系の体積も一定値に落ち着く.
すなわち体積が熱平衡状態になる.
体積は圧力の平衡によって決まるのだから一般に等しくはならない.

圧力は温度と似ているが,体積は系のエネルギーなどと似ている.
体積 V  や内部エネルギー E  ,それから系に含まれる粒子数 N  はそれぞれ系のサイズに比例する.
系が2つ,3つとあれば V,\,E,\,N  といった物理量は各系の合計の値となる.
一方圧力 P  ,温度 T  は系のサイズとは無関係に定まる.
系が2,3つとあっても十分時間の後に系全体で等しくなる.
そこで変数を2種類に分類して圧力,温度といった物理量を示強変数 (intensive variable) といい,内部エネルギー,体積,粒子数といった物理量を示量変数 (extensive variable) という.
また示強変数と示量変数の総称として熱力学変数という.
それぞれの物理量の正確な定義は後の節で与える.

他にもマクロ系を記述する量があるかもしれないが,熱平衡状態とはそれら全ての熱力学変数がある一定値に落ち着いた(緩和した)状態のことを指すものとする.
ふつう熱力学とは熱平衡状態だけを扱う理論のことを指す.
そもそも非平衡状態の理論にはまだ確立したものが存在していない.
そのような事情から本章においても熱平衡状態またはそれらの状態間の関係のみを扱うことにする.
そして上述の言葉を用いて本節での仮定は

熱力学第〇法則

任意の孤立系では十分時間が経つと,全ての熱力学変数が一定となる熱平衡状態に達する

とまとめられる.
この主張を熱力学第〇法則という.
同じ系で熱力学変数の異なる平衡状態を区別するときは大文字の筆記体 \mathcal{A},\,\mathcal{B},\,\mathcal{C},\cdots  を用いる.
逆に言えば平衡状態を1つ指定すれば全ての熱力学変数が一意に定まる.

環境(右)との熱平衡状態

マクロな系を導入したが,熱力学では環境 (environment),または (bath) という概念も用いる.
これらはマクロな系よりさらに大きい系を指す.

いま注目するマクロ系が温度 T_1  の平衡状態にあるとしよう.
この系に熱浴(あるいは等温環境)と呼ばれる温度が T\,(>T_1)  の非常に大きな系を接触させて,2つの系を新たな平衡状態にしたとしよう.
上の仮定ではこうして達成される平衡状態の温度 T'  T_1  T  の間の温度になるとした.
しかし熱浴は非常に大きな系なので着目系へ熱エネルギーの移動があったとしてもその影響は微小であり無視できる.
つまり熱浴は温度 T  のままであり,着目系もこの温度になるまで熱エネルギーを熱浴から受け取り続けられる.
こうして熱浴はマクロ系の温度を制禦するのに用いられる.
圧力に関しても同様に等圧環境というものを導入できる.

最後にゆらぎに関する注意をしておく.
熱平衡状態で熱力学変数の値は一定値に緩和するが,厳密に一定値をとるわけではない.
各瞬間にこの平衡値のまわりでゆらぐ.
これを熱ゆらぎ (thermal fluctuation) という.
熱ゆらぎは時間平均をとることで取り除くことができる.
別な言い方をすれば平衡状態の熱力学変数の値は,マクロな時間間隔では厳密に一定値をとる.
それより短い時間スケールでみるとこのようなゆらぎがあらわになってくる.
ゆらぎの扱いに関しては章を改めて議論する.

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